殺す話/死ぬ話

殺す話/
最近、子供が殺される事件が多い。
テレビなどで目にする事件では目的や動機が判然としないものがある。まず人を殺す事が前提で、その実行にあたり抵抗力の弱い子供が狙われているということなのか。そうなると常人の感覚ではとらえ切れない。
身代金目的の誘拐における日本とアメリカの違いは、日本では子供の誘拐が多く、アメリカでは社会的地位のある人物の場合が多いことだそうだ。子供は確かに誘拐しやすいだろうが、アメリカ式の方が腑に落ちる。
殺人が褒められないことなのは当たり前だが、もうどうしても人を殺さないと収まらないというのなら、子供じゃなくて悪い大人を殺した方がずっと良いのに。と、ゴルゴ読み過ぎの私は思う。それなら単なる殺人者じゃなく、暗殺者扱いとなってちょっと格が上がるんじゃないかしら。

死ぬ話/
もう20年くらい前だろうか。私の故郷の盛岡で「鹿川君事件」というのがあった。鹿川君は大宮だったかの中学生で、いじめを苦にして首つり自殺した。その現場になったのが盛岡駅のトイレだった。いじめの社会問題化のきっかけとなった事件で、なぜ盛岡まで来たのかは知らないが、地元での出来事だったから覚えている。「このままじゃ生き地獄になっちゃうよ」というメモが彼の心情を表すものとして良く取り上げられていた。
彼がなぜ死ななければならなかったのかは私は分からない。しかし苦しみからの逃避とともに、いじめた同級生達への意趣返しがあったことは確かだろう。自分の死によって彼らはショックを受け、自分たちの行為を悔いるだろう。また周囲から責められて傷つくだろうと彼が考えたことは想像がつく。
ところがである、私が聞いた話によると、彼をいじめたグループのひとりは全く反省するでもなく、あろうことか「いなくなってセイセイした!」とのたまっていたらしい。鹿川君の復讐は見事に失敗していたのだ。
最近までどうやって死のうかとばかり考えていた私は、あるときハタと気付いた。
「私が死んでも、誰の生活にも何の影響も与えない!」
私は家庭を持っている訳でもなく、どこかに勤務している訳でもなく、ふらふらひとりで時間を持て余している。つまり、誰とも生活を共にするどころか、接点すら持っていない。
今私が突然この世から消えたとして、思い出を脳裏に浮かべていくぶん悲しむ人はあろうが、困る人はいない。せめて困る人が沢山いるような人間になってから死にたいと、いやがらせ好きの私は思い直すようになった。
これは進歩だと、自分では感じている。
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by maestro_k | 2006-05-22 22:15 | diary