洗濯

本日昼過ぎから佐吉さんと打ち合わせの予定だったのだが、
「雨と風が凄いから明日」
と延期になった。こういうルーズなノリは大変よろしい。打ち合わせというのは、佐吉さんが近々ちょっと面白げな催しを考えているらしく、それに関して。好きな人はとても好きそうな趣向で、私も楽しめそうなもののようだ。

というわけで一日中家事。舞台中に溜まっていた洗濯をこなす。洗濯は楽しい。だって衣類と洗剤と柔軟剤を入れれば、勝手に洗って脱水までしてくれるのだ。全自動洗濯機は一種のブラックボックスである。

洗濯の合間、茶を飲んだりテレビを見たり。こんなにゆっくりテレビを見たのは何ヶ月ぶりかしら。一色某という脚本家が鬱に関する番組で自分の鬱病体験を語っていた。私も病気とまではいかないけれど、一年に二回くらい鬱状態になるので興味深く見た。彼以外にも鬱病と診断された人々のいろいろなケースが紹介されていて、原因は多大なストレスというのが多かった。あるデザイナーは必死にデザインや企画を上げてもクライアントの方針がコロコロ変わって何度もアイデアの練り直しを余儀なくされて発症したという。先の脚本家も多忙故のストレスで発症し、当時は鬱病そのものがあまり一般的に知られていなかったので自分でも気付かず、奥さんが強引に精神科に連れて行って判明したのだという。本人は訳の判らなかった鬱状態に病名をつけられたことで逆にホッとしたという。そうかやはりストレスか。

私は一昨年の前半あたり、ある多大なストレスのせいでやはり鬱に陥り、それはもう芝居も歌も辞めて田舎に帰るどころか、悲しくもないのにひとりでボロボロ泣いたり、いっそこのまま消えてなくなってしまいたいという想いに駆られていた。幸い部屋がえらく散らかっていたのが心残りで果たせなかったのだが、それからユルユルと回復して今はなかなか壮健な精神状態である。鬱はちょっと塞ぎがちとかでは済まされず、何か素晴らしいものと触れ合っても全く心が動かない無感動状態で、世界にも自分にも何の価値も見いだせなくなる。これは心、というか脳が病んでいるので、特効薬はなく、リハビリのように時間をかけていつの間にか元通りになるのを待つしかない。私は病院には行かなかったけれど、もし通院してたらもうちょっと回復が早かったのかしら。
そんなわけで軽々しく「鬱だ…」などと言ったり書いたりしているのをどこかで見ると、「ふうん」と思ったりする。せめて「プチ鬱だ…」くらいにしとけばいいのに。
私は言葉の誇大表現が嫌いで、ちょっとがっかり程度のことを鬱だと言ったり、大して面白くもない文に(爆 とか入れたりする人の文章センスを疑う。激辛料理が美味い料理とは限らないのと同様、過ぎた表現は真意を伝えるのに不適当な場合が多い。どうやらそういう誇大表現が好きな人の方が多いようなので、私はしないというだけで別にやめろという気はない。
話題はどんどんずれてゆくが、大学時代、「鬼のように」という比喩が流行っており、それを鬼のように使う同級生がいた。
「鬼のように美味い」
「鬼のように速い」
「鬼のように熱い」
オニノヨーニ、オニノヨーニって五月蝿えんだよ!鬼って誰?沢村忠?
そこらの若者が使うなら捨て置くけれども、外語大の学生がその程度の比喩しか使えないのかと腹が立った。語学力とはまず母国語力からなのだ。外国語を習わんとする人間が自国語もろくに使いこなせないなんて。我慢し切れずに言った。
「鬼のようにって、よく使うよね?」
「あ?うん」
「それって、ボキャブラリーの不足だと思うんだけど」
「………そうだね」
それきり彼は私の前では鬼鬼言わなくなった。さすがに語学に携わる人間としてのプライドがあったのだろう。

あれー、タイトルは「洗濯」だったのになあ。
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by maestro_k | 2008-04-08 23:59 | diary